2018年6月19日火曜日

変なドキュメンタリー?『拾ったものはボクのもの』を見たら、カーダシアン一家を思い出しました。



まるで監督・脚本・主演、剛田武といわんばかりの邦題…

Netflixにて配信されていたドキュメンタリーで、当時日本でも報道されたという珍事の中心人物とその後に焦点を当てています。

その珍事というのが、シャノン・ウィズナントという男性が、オークションで買ったグリルの中に、人間の切断された足を発見したというもの。

普通の神経なら、グリルも足も持ち主にクーリングオフかますところですが、何をトチ狂ったのか、このシャノンという男は、足の入ったグリルを人に見せたり使わせたりすることで、有名になろうとします。

一方、足をうっかりグリルにいれたままオークションに出してしまった持ち主・ジョン・ホッジは困りました。
彼は過去に父親と一緒に乗った飛行機が墜落したことで、左足と父親を同時に失います。
そんな左足を保管しようとしたものの、保管を頼んだ葬儀屋がサボってごみ袋に入ったまま送ってきたとか。いいなあ、アメリカはゆるゆるでも働けて。

ジョンはその後、近所のレストランの冷蔵庫に自分の足を預けてもらい、その次に木の上につるして天日干しにするという、どこぞのサイコも顔負けの処置を施し始めます。

そしてなんやかんやあったうちに(家が抵当?に入ったかなんかで)、ジョンはとりま足をグリルにぶち込んで、そのままグリルを引き払ってしまったのです。(小さい頃聞いた、カマキリの卵をとりま引き出しにしまったまま、時間が経過してしまった話を思い出す…)

世間一般の感覚なら、この一大事はスムーズに足を返して幕引きとなるはずですが、そうならないのがドキュメンタリー。

シャノンは昔から有名人になることが夢らしく、ジョンの足をまるで天からの授かりものだと言わんばかり。


その熱狂と野心っぷりには、流石の奥さんも引き気味。

かたやジョンも被害者かと思えば、ドラッグに溺れ、家族にさえ不幸を撒き散らすという現状の最中起きた、今回の事件だったのです。
またしても家族にあらぬ波風を立て、ジョンは母親にさえ疎まれてしまいます。
誰にも味方してもらえず、一時はホームレス生活になるほど。

そんな中、事態を進展させる出来事が…

(現在は義足生活のジョン)

アメリカの人気番組で、判事がスタジオで事件に判決を下すというものに、シャノンとジョンが出演することになります。
シャノンはこれで足は公にも自分のものだと証明されると意気揚々。自分の金で買ったんだから、足は返す必要ないと一点張り。
しかし判事は「なんで足2本あるのに、もうひとついるの?」と言って、事件は一件落着。シャノンの持つ足は、ジョンのもとに戻ることになりました。

ここからのシャノンの転落振りが、下手なグロ映画よりも目も当てられないほどに。

ジョンの足もなくなり、有名になる手立てがなくなって諦めがついたかと思うと、シャノンはまるで自分の才能があるかのように振る舞いつづけます。
当然、世間なんてそっぽを向くのはあっという間。それでもシャノンは自分がまだ有名人だと信じて疑わない言動を続けます。

(左のずんぐりがシャノン)

極めつけはオークションで、左足ばかりを集めたランプを販売します。
誰も目を向けない中、一人だけそのランプを買う人がいますが、あくまでシャノンはクソどうでもよくて、なんか好きなアーティストの作品に似ていたからとか、そんな理由での購入でした。
しかしシャノンは「サインもつけるよ?」と言いますが、客に「結構です」とあっさり断られます。
次第に現実を突きつけられるシャノンは、最愛の妻にも強く当たるようになっていきます・・・奥さんがインタビューに答えているときも、離れた暗い部屋から嫌味を飛ばしてくる始末…

一方のジョンは、テレビ番組の出演をきっかけに、薬物更正のきっかけを与えられ、少しずつ立ち直り、家族との関係も取り戻していきます。(足も無事骨にしてもらえました

このドキュメンタリーを見ていて真っ先に思ったのは、あのお騒がせセレブ・カーダシアン一家をクソミソに批判したジェレミー・レナーのコメント

「ああ、才能ゼロのバカげた人たちだね。あの人たちは私生活でただ名前を売っているだけだよ。本当にバカな、バカな人間たちだね」(そんなホークアイさんは、下積み時代はお金なさ過ぎてホームレスになったことがあるとか

その昔、脚本家の斉藤ひろし氏は「チャンスは人生で3回訪れる。そのいつ来るか分からないチャンスのために、日ごろから力を蓄えておくべき」みたいなことを言っていたのも思い出しました。
楽して有名になろうなんて思わないほうがいいということを、不覚にもこのドキュメンタリーで再確認させられました。

反面教師を知る上では、いいドキュメンタリーだと思いました。(ちなみに骨になる前の足も少し登場します…おぇ…

2018年6月4日月曜日

『ビューティフル・デイ』感想・ネタバレ!原作との比較も!




先日、今年の初めからずっと楽しみにしていた『You Were Never Really Here』もとい、『ビューティフル・デイ』を見てきました。

監督、主演、音楽がそれぞれ大きな注目を集めた本作の率直な感想と、観客の想像に委ねる演出が多い中、原作がどこまで反映されているのかをまとめてみました。

原作の人物像を生かしつつ、監督が描きたいもの描いた印象。



原作小説は短編となっており、ジョーがニーナ(原作ではリサという名前)を救出しようとするものの、裏で動いていたもうひとつの事態に、ジョーが巻き込まれていくという、概ね映画と一緒です。

キャラクターもビジュアルは全く異なるものの、性格などは殆ど一緒。

例えば、映画では自分の母を殺害した暗殺者と、まさかのデュオするシーンがありますが(仕舞いには手を取り合う)、原作のジョーも無駄な殺しは一切しない。そういう人物になっています。文章で表現できない代わりに、ああいった表現をするあたり、リン・ラムジー独特の演出をビシビシと感じます。

ジョーが過去に追ったトラウマも、映像というかフラッシュバックで見せており、これも概ね原作どおり。

倉庫のような扉(トラックの貨物部分)を開けると、少女の亡骸が重なりあうようになっているシーンは、ジョーのFBI時代に経験した惨い事件の結末のワンシーン。これが原因でジョーの心は壊れ、常に頭の中に自殺願望が付きまとうようになります。

原題のYou Were Never Really Hereは、原作中でジョーが自殺しようとした際に、頭の中で聞こえた一節「お前はもともといなかったんだよ」から来ています。

原作を読めば、事件の全貌は分かるのか?



そのスタイリッシュな演出が効きすぎた結果、ぶっちゃけ事件の全貌が不透明というのが事実。

なぜヴォットは飛び降り自殺したのか、なんでウィリアム知事がヴォットの娘にこだわるのか?なぜジョーはこの一連の事件に巻き込まれたのか・・・などなど。
演出が冴え渡りすぎて、一瞬事件のことなんてどうでもよくなっていたのですが(たぶん監督もそこまでこだわってない気がする)、自分なりにまとめてみました。

・匿名メールは、ヴォットの自作自演


そもそもヴォットは、ジョーに匿名のメールから、行方不明のニーなの居場所が分かったといいますが、おそらくは自作自演。

ニーナは実の父に売られていました。

ウィリアム知事はニーナを貰う代わりに、ヴォット議員がいい思いをできるよう計らうといった取引をしたのです。(その事実を知ったヴォット妻は自殺)

最初にニーナがいた娼館と、ウィリアム知事の別荘では同じ音楽が掛かっていたので、あの娼館も、知事の所有物なのかもしれません。
あのミニチュアの家も、ひょっとしたら娼館の形をしたものだったり…?

ジョーと会った際、ヴォットの顔には殴られたような傷があります。
おそらく自分の行った取引に罪悪感を感じ、このことを公表しようとしたらウィリアム知事あるいはその息がかかった者に脅されてぶん殴られたというところでしょう。
そこで残忍と評判の高いジョーに、てめえのケツを吹いてもらおうと依頼をしたわけです。なんとまあ情けない話…

・原作のヴォットはどこまでも救いの無いクズ


ところがこれが原作になると、ヴォットは最後の最後まで性悪のクソ野郎になっています。

原作の場合、ヴォットが自分の選挙に勝つために娘を売る件は同じですが、相手はウィリアムではなく、政界に精通したギャング。
ウィリアム知事はそのことを知っており、匿名のメールを送るというもの。そして飛び降り自殺してしまうのもウィリアム知事…

ヴォットは妻も娘も捨てて、雲隠れし、新しい人生を始めて子供も作っちゃうぞっと意気込んだその瞬間、ジョーにハンマーでぶん殴られて死にます
娘の行方は最後までわかりませんが、ヴォットを殺したのは、娘をさらった相手に対して、「次はお前の番だ」というメッセージのため。
結構ラストはごりごりのスリラーで幕を下ろします。
映画のような開放感溢れるエンドはないです。

で、映画化は面白かったのか?



原作は結構ディティールまでしっかり描かれており、それはそれで面白いのですが、そういう文章を映像化すると、こうなるのかあ!という感動があります。
ちゃんと「この部分は小説のここ」というのがなんとなく分かるんです。限りなく説明要素を省いて、スリラーには無い演出も入っているのに、凄く新鮮な感覚でした。

じゃあ、原作読んでなかったらつまんないんじゃ…という感想もありそうですが、逆に自由に解釈したりして見たほうが、より本作の魅力を感じられるかもしれません。自分はぶっちゃけ順番を間違えた気がします…汗

さっきも言ったとおり、リン・ラムジーの手腕、ホアキン・フェニックスの演技に見とれていると、事件の全貌とか死ぬほどどうでもよくなります

音楽ももちろんよかったです。個人的には『グッド・タイム』みたいに、劇場で使用したものをそのまま別バージョンでサントラにして欲しいくらい。(というか、劇場で使用していない曲が、サントラにも結構合った気がする

小説も120ページくらい、映画は90分と、この多忙な日本社会には打ってつけの尺となっていますので、まだ未見・未読の人は是非。